土曜日の試合を球場で観戦しました。
結果はご存知の通り8対8で引き分け。一時は0−7のワンサイドの展開から、打撃陣が奮起し脅威の追い上げ、最後は一打サヨナラという場面をつくり、大逆転勝利まであと一歩のところまでファイターズを追い詰めました。
凄く良い試合。
相手がファイターズということもあり、リーグ優勝に突き進む勢いと自信をチームにもたらしたあの8点差大逆転の日の再来に感じた方も多いはず。
誰一人諦めず戦い抜いた、2021年屈指の試合。
前述の試合展開に事実と異なる表記は多分ないです。続けた感想も、試合展開からしたらごくごく自然な内容だと思います。凄く良い試合でした。
…良い試合、だったでしょうか。
良いと思う場面はありました。最近少し頭打ち感がある呉と愛斗の活躍は嬉しかったし、積極的に勝負して結果を継続して出している岸と水上の姿はワクワクします。そしてカメラワークなし・定点の俯瞰で、一枚絵の中で観る中村のベースランニングの素晴らしさ。
最後なんか本当に球場観戦の醍醐味を至高の形で堪能させていただき大満足ぜひシェフにご挨拶を
ってなもんです。
それでも、結果を見た知人から「球場行ってたんだ?良い試合でよかったね!」と言われたら、素直に頷けない気がするのです。
大前提、引き分けなら良しの時期と順位じゃない。あとはまあやっぱり今井。その他諸々、キリがないので全部は書きませんが。
ちょっと話逸らします。
新型コロナの影響下でのシーズンも2年目となり、最初は自粛という名の禁止状態にあった各チームの応援も、数々の制約下ではありますが再開してきています。
試行錯誤しながらですが、事前録音の応援歌・ドラムを流す、というのがベーシックになりつつありますね。
同じパターンのローテーション状態のところもあれば、状況に極力即すようその場その場でパターンを選び流すところも。
ライオンズは後者ですね。生演奏でないことを除けば、従来とほぼ変わらない応援スタイルになってきています。そういや小旗は蔓延拡大に拍車をかける可能性ありって話はなんだったんですかね。
応援歌後のコールも録音して流しているところもありますね。好みだと思いますが、自分の中では無しなのでライオンズで採用されなくてよかったです。知らんおっさん(若者かもしれませんが)に自分の声勝手に代弁されたくないし、控えめの叫び声ってなんか間抜けだし。あくまで自分の好みはですよ。
あとは本来コールする部分を補う手拍子(クラップといったほうがかっこいいかな?じゃあクラップ)のリズムとか、クラップのみで構成される応援とか(三三七とか一拍子は元を辿ればそんな応援の代表といえそう)があると幅が広がりそう。特にチャンステーマとか、声なし前提での曲をつくるところがそろそろあってもいいですけどね。
社会情勢が変わっても、すぐに全てが以前のものにはならないと思っています。むしろスタンダードなスタイルとして残る部分も結構あるのでは。事前録音とか、そもそもスピーカー応援は存在していたし、少人数でもサマになるし、継続するメリットは多そう。
いずれにせよ、スタンド全体から大声で飛沫やむなしで応援するって状況は、数年単位で戻ってこないことを覚悟する必要はありそう。少なくとも運営側はそこの復活を焦らないでしょう。ある程度応援が成立している現状を踏まえれば。
そう、ある程度しか成立していない。
今のスタイルは、クラップができる。チャンスにふさわしい、勢いのあるテーマが流せる。フラッグやボードやタオルで視覚的な応援は今までどおりできている。
充分満たせているわけではないけれど、チームを応援する意思を伝えるために必要な最低限はできている。声がないだけ。最低限ではあるけれど、激励する方法はいろいろある。
想像力のない自分は、今日の試合で今更気付きました。
叱咤の表現方法が無い。
不満を示す方法が無い。
以下本題。文体変えます。
今のスタンドは手拍子、クラップが主体となっている。充分ではないが、以前に近い応援が手拍子を軸にできるようになった。
そう、充分ではない。
つまり、不足がある。
クラップはあくまでひとつの打音。あらゆる感情を即座に表現するのは困難を極める。拍手に対して、労いや鼓舞といったものとは真逆の感情を感じ取る人は少ない。そもそも一般的に、拍手はポジティブなものだ。
ブーイングや野次というものを推奨する気はない。ただ、無条件に否定する気もない。目の前の感情が思わず出るのが観客として自然であると思う。
喜怒哀楽のうち、怒の感情表現の術がスタンドからなくなっている。それが今の状況。好意的に捉えて、果たしていいのだろうか。
この日、物凄く嫌なシーンがあった。
最悪の立ち上がりで大量失点をしながらも、続投していた先発今井。続投とはいえ以降立ち直ったわけではなく、加点を許して0対6。
二者を簡単に抑えた5回。ふたりを抑え、ようやく三者凡退、2イニング連続無失点でほんの少し展開を変えていけるか。
その矢先にホームラン。不用意だったと思わざるを得ない被弾。反撃意欲を削ぐには充分すぎるその失点の虚しさは、次の打者を簡単に打ち取ったことで皮肉にも増幅されたと思う。
足取り重くベンチに戻る今井、そして野手たちを迎えたのは無音のスタンドだった。
無表情、無反応。あまりにも冷たい、なんの感情もないスタンド。
ファンにはそれぞれの思いがあったはずだった。拍手のようなポジティブさのある表現はふさわしくない、という思いは満場一致に近い形だったのだろう。しかし、今それ以外の術はない。
出た結果は「何もしない」だった。今の状況だとできることがないから、と頭に加えた方がより正確なのかもしれない。
結果生まれた静寂は、なんともいえない気持ち悪さがあった。
あの静寂、選手はどう感じただろうか。
ネガティブであることは感じ取れているとは思う。ただその空気は、鼓舞に繋がる要素は一切なかったように思う。しらけた雰囲気とでも言おうか。少なくとも、叱咤激励どちらにも属さない。ここからやり返そう、という意志への後押しの一助とは一切なりえない。
歓声か無反応。
この二択しか浴びることがないのは、選手にとっては幸運だろうか。肯定しかないスタンドで戦うことが、いずれ当然となるのだろうか。そのとき果たしてファンは、変わらぬ緊張感を享受できるだろうか。
ブーイングや罵声、眉を顰められることが非常に多い行為である。状況や発信者の意図を問わず、悪と一刀に断じられることは珍しくない。
ないほうがいいのは当然のこと。「それよりも応援しよう」。正論である。何より耳障りが良い。
しかし果たして、まったく廃された状況は正しく、健康的なのだろうか。少なくとも、自分に生まれたのは違和感だった。
正解はないのだろう。正か誤か、一方に定められる類のものではおそらくない。
しかし現実として、表面上肯定しかないスタンドを背にした試合は続く。肯定しか許されないスタンドを受け入れるしか、応援する術はない。
選手が今を肯定しているわけがない。現状を否定をし、覆しそして更なる高みに挑んでいると信じている。そう信じて、自分は引き続き肯定の音を打ち鳴らすべく球場に足を運び続けるのだろう。
願わくば、その否定が我々よりも強く、目指す高みが我々の目線の遥か彼方でありますように。
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