正直、自分もそう思う。
ホームでの達成が一番盛り上がるに決まっている。
少しでも多くのライオンズの拍手で包むべき瞬間に決まっている。
近年ライオンズファンとしては思うところがあるチームとの試合ってこともある。
仙台ダメだよ、ホームじゃなきゃ。
正直自分もそう思う。
そう思っている、と思っていた。
抜けろ、落ちろ
瞬間、口に出していた。
冷静に考えたら当然の話で。
ずっとヒットを願ってあの背中を見続けてきた。
もう反射でそうなる人間になっていた。
その反射に抗えるほど、凡退することを本気で願うことなんて、どだい無理な話だったんだ。
逆らわない流し打ち。
緩急に崩されないバットコントロール。
2000回目の快打も、栗山巧が詰まっていた。
祝福の儀式は、思ったより質素だった。
なにかが終わるわけではない。これからも続いていく。それも、ちょっと前までイメージしていたよりこの続きは長くなる。そんな通過点の儀式。それでいて、しっかりと偉大さが伝わる、いいセレモニーだった。
少し、個人的なことを。
妻は栗山巧ファン。
ファンに優劣や勝ち負けはないけれど、彼女の熱意は結構なものだと思う。自分も当然栗山巧が好きだが、ファンだと口にしたことはない。隣の熱量を知っているので、「自分も」と言うのがなんだか憚られている。もちろん、勝手に憚っているだけだけれど。
夫婦となるまでの過程に、栗山巧の存在を無視するのは難しい。とあるアイコンで個人として認識したことから始まるので、大袈裟にいえば栗山巧で繋がった縁なのかもしれない。
当時の自分はそれはそれは面倒な奴で、本来自由なはずの応援スタイルに一過言も二過言もあるような馬鹿だった。
その中で、結構な期間本気で否定していたものに、「名前だけの応援ボードや応援幕」があった。
名前だけってなんだよ。
その選手にどうしてほしいんだよ。
名前だけならファンが出さなくてもスコアボードに出てるから。
なにも伝わらないじゃん。
伝えるものがないなら応援じゃないじゃん。
書き記すとかなりキツイが、曇りも無くそう考えている時期があった。
それを覆してきたのが、今の妻だった。
討論して論破されたとかではない。
応援していることが届いている。
応援されていると感じてもらえている。
それが選手の力になっている。
それを証明する光景が、目の前で起きた。
ああ、自分が間違ってるのか。そう思わされた。ぐうの音も出なかった。
明文化はしていないけど、夫婦の約束事がある。
相手が球場に行けないことを、自分が行けない理由にしない。
自分が球場に行けないことを、相手が行けない理由にさせない。
自分が行きたくて行けるのであれば、相手の予定を問わず行く。
結婚させていただく(この一文で普段の上下関係がわかりそうなもんだが)以上、栗山巧の応援の邪魔だけはしない。それは守ろうと。
日々の生活で迷惑ばかりをかけているが、それだけはここまでも守れていると思っている。健やかなる時も病めるときも、と誓ったのは別件だった気もするけれどそれは置いといて。
しっかりとこの人にこの節目を観てもらうことができた。自分のやっておきたかったことがひとつ叶った。まあ、誰が相手でも、彼女はあの場にいたと思うけど。
それでも、こいつ拾ってやってその点は便利だったな、と思ってもらえていればありがたいと思う。費用対効果としてどうかは不明。
結局、折角の大記録がさまざまな制限下での達成になってしまったのは残念。
そう遠くない終幕の時。
その時こそ、総立ちの大観衆で声の限りを尽くして讃えたい。
社会情勢を考えると、そんな時期がすぐに来るとは思えない。
それでも栗山巧なら、その時まで選手としてあり続けると信じている。
栗山巧選手、2000本安打おめでとうございます。
ライオンズの選手でいることを自ら選んでくれて、本当にありがとうございます。
ライオンズを愛してくれていること、凄く嬉しく思います。
我々もライオンズが大好きです。
栗山巧選手と同じくらいに。
ずっと、ライオンズであり続けてください。
我々もライオンズファンであり続けます。
HiT !!!!!!!! (文春野球)
返信削除素敵なご夫婦ですね!