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2020.10.28 L4-3E

2020/11/15

メットライフドームの座席関連 外野芝生席の話 観戦記

 「芝生席が無くなるらしいし、最後三人でライト芝生席で観ない?」

64からメッセージが届いたのは、10月に入ってからだっただろうか。


事の発端は球団からのアナウンスだった。


2020年で芝生席は改修します。
開場以来続いた外野芝生席はその歴史に幕を下ろします。
最後だし改修で半分くらい閉鎖するので、ライトもライオンズ側にします。


既に今季一度ライトで観戦していた自分はこう返す。


「ガラガラで好きに座席指定できるから、折角ならあの時の場所にしようか」



あの時。その始まりは2000年だったと思う。

当時高校2年生。周りの人間の最優先事項が部活動や学業や恋愛になっていくなか、自分の最優先事項は未だライオンズだった。要するに、拗らせていた。

拗らせていた分、置かれた状況が厄介だった。観戦に行く相手がいなかった。

周りの人間は最優先事項が他にある。幼い頃はいつも一緒だった親と行く発想は持たない程度には思春期である。一人で行くのに若干の抵抗がある程度には世間体を気にしていた。

また、この頃は応援という行為が日本プロ野球でも少しずつクローズアップされ始めた時期だったと思う。応援時には立ち上がり、声を出し、自分で作った幕を出す。ファンの存在において、観戦者・傍観者の立場に加え、応援をしてチームを後押しをする、という参加者としての側面がより強調され始めた頃。

その様子、その姿勢は、相手チームのスタンドからは見てとれた。ライオンズ側にはまだ波及はしていなかった。少なくとも波及していないと感じていた。チームが勝てるように立ち上がり声を枯らし応援する。そんな行為に魅力を感じる年頃でもあったと思う。


そんな時、我が家にインターネットが導入された。世間的に早い方では無かった気がする。


未体験ながら、噂には聞いていた。

同じ趣味の仲間が集う「掲示板」とやらがあるらしい。
ライオンズのファンが集うそれもあるらしい。

当然すぐさま探し始めた。程なくして、大手と呼ばれるような人気のサイトに辿り着いた。掲示板では、沢山の人達がライオンズの話ばかりをしていた。当時の自分にとって、理想の場所だった。

リアルタイムでWeb上で複数人と会話ができる「チャット」というのもあった。西武ドームの近くにある飲食店の名を冠したチャットスペースは、その時々でライオンズファン同士が会話を楽しんでいた。

何度か覗いているうち、23時頃に多くの人が集まることに気付いた。我が家は定額制のケーブルテレビ回線だったのであまりピンと来なかったが、なんかの回線で繋ぐ場合その時間は安いだか無料だかになるから、ということだったらしい(テレホタイム、と呼んでいた気がする)。自分もその時間に合わせるようになるまで、さほど日数はかからなかった。

深夜帯ということもあって、社会人が多かった。これも当時の自分には刺激的だった。社会人のライオンズファンと話をする機会なんて、当時の高校生には望みようも無かった。

たまに女性のファンもいた。これもここでしか無い体験だった。そもそも女子相手にろくに会話もできない性格だった。それが女性から話しかけてくれて、その内容がライオンズなんて。理想的すぎて、得意の妄想でも考えなかったシチュエーションだった。ちょっと胸が高鳴ったりもした。


そんなこんなでズブズブと、いやするするとかなりスムーズにハマりこんでいたある日、こんな提案があった。


「ライト芝生席でみんなで応援してるから、今度来ない?」


ここで交流している面々で、集まって実際にドームで応援しているらしい。当時は着席が当たり前だった外野席で、後方に人がいない位置を狙って立って応援しているらしい。

飛び付かないわけがなかった。

冷静に考えて、一人で観に行くことを世間体で躊躇っていた自分が、インターネットで知り合った人間と観るという、時代的に世間体でいえばより特異な行動を抵抗なく選んだのが謎ではある。おそらく「誰かと観る」「思い切り応援する」ことへの飢えが勝ったのだと思う。


一回目の緊張をクリアすれば、あとは楽しさが勝った。観戦数は一気に増えた。電車代が惜しくて、原付でドームに向かうようになった。


回数を重ねるうち、観戦中によく話す相手が決まってきた。その中に、二人がいた。


若干小太りで、動きもコミカルな男性が64(当時はそう呼ばれていないが)だった。

くだらない会話と面白い動きで、だんだんと沢山話すようになった。ディズニーが好きと言っていた。貧乏時代野菜を畑から拝借したと言っていた(何故その話をされたかは覚えていない)。

97年の優勝決定ホームランは、その瞬間の直前ゲートを潜り、ダッシュで駆け上がったら飛び込んでくる打球が見えて、通路で大の字になって喜んだと言っていた。今思えば嘘だと思う。2002年に犬伏の逆転サヨナラ弾をラジオで聴いて閉店後の宝くじ売場を殴打したらしいので、やりかねない気はするけど。


64より若く、姿だけなら良い部類に入りそうな男性とも仲良くなった。紆余曲折あって、「えるわい」と呼ぶようになった。

富山出身で、上京前からライオンズにのめり込んでいたらしい。球場観戦はおろかテレビラジオ観戦もままならない中で培われたライオンズへの想いは強く、応援への熱量も相当なものだった。自然と距離が近づいたのは、年齢の近さとその熱量の近さのせいだったと思う。

仕事は、主に鉄道を被写体とするカメラマンだった。読書家なのに、漢字に弱かった。というか文字に弱かった。書くのが苦手だった。鉄道が大好きだった。何故か知らないがライオンズファンで鉄道が好きという人間は結構多い。時間にルーズだった。そのせいで色々起きた。黙っていれば格好良い男性の域なのに、多方面でボロが出ていた。歳上だからと使っていた敬語をやめるのはこの男相手が一番早かった。


兎にも角にも、この二人とは特に仲良くなった。恐らく、当時から応援の熱量とか、抱いている理想とか、そのあたりが近かったのだと思う。

とにかく、立ち上がって応援する人などほぼ皆無、寝そべって観戦する客もいたガラガラの芝生席を、ライオンズを応援するためにユニホームを身にまとい、立ち上がって声を枯らす人達が集まる場所にしたかった。当時は少なかった応援ボードの類も、この三人が率先して作っていた気がする。

攻撃時はみんな総立ちで、声がグラウンドに響き渡って、ユニホーム姿とボードと幕と旗で埋まる外野席。そんな場所になったらいいね。そんな場所にしたいね。試合後に寄ったファミレスで、そんなことを語っていた。きっと、叶うことはないと心のどこかで思いながら。


大学生になった2002年、球場に足を運ぶ頻度はさらに増した。

当時ホームとして迎えた札幌の開幕戦、初めて自費で遠征をした。予定の合った64とツインルームをとって、意味もなく前日入りした。当然することがなくて、なんとなく丸山球場を見に行った。帰りに寄ったケンタッキーが異様に美味かった。誰に言っても店で味が変わるわけがないと笑われるが、共に食した二人の感想は未だ変わっていない。

ロフトに寄って、試合で使うボードを宿で作成した。ここで64が作った犬伏のボードが後の「猛犬注意」に繋がり、家で見たビールかけのシーンで犬伏のつけた鉢巻にひっくり返ることになる。

ちなみにこの期間は64の誕生日にかかっていた。当時付き合っていた彼女は、当然二人で祝うつもりが見知らぬ相手と旅に出たとあってかなり怒っていたと後で聞いた。女と行ってるんじゃねえだろうな、と疑われたとも。己にかかった嫌疑なんぞつゆ知らず、ポスカでぐりぐり作った鈴木健と垣内のボード。出番はなかった。

日本シリーズにも自由席があった当時。大学生という立場を活用して、第一戦の二日前から後楽園にテントを張った。前日の夜を共にしたのがえるわいだった。寝袋に包まりながら、夜空を眺めつつ無駄話をした。翌朝雨で目が覚めた。そこまでして準備した日本シリーズは、語りようのない結果だった。


初めて歓喜を共有したのは2004年の福岡だった。

採用されたプレーオフ。少ない資金で向かうため、自分は鈍行で博多へ向かった。宿はネットカフェだった。勝負は最終戦にまでもつれ込み、その最終戦も最後の最後まで1点を争う試合に。

すんでのところで失点を防ぐプレイの数々。もうテンションがおかしくなっていた。二人と同じくらいの付き合いの18歳とともに、嗚咽に近い叫び声を出した。挙句犬伏が決勝点を叩き出したもんだから、64は腰を抜かしていた。自分は虚な表情で徘徊し始めたらしい。たとえ最後に勝つとわかっていても、二度と繰り返したくないと思うくらい、精神をすり減らした試合だった。あそこまでの感情で野球の試合を観ることは、流石にもうないと思う。


その後もしばらく、置かれた立場や関係は変わらなかった。相変わらず日によっては立っての応援を咎められ揉めたり、特に明示されていない規制を盾に幕を注意してくる係員の方と話し込んだり。

特に後者は一時期酷かった。明示してないけど新聞紙大くらいで、という指摘に、選手に見えなきゃ意味がない視力検査してるんじゃないと冷静になればちょっとアレな主張を堂々と繰り返した。時代なのかその方の寛大さゆえか、係員のチーフのような立ち位置の方とよく話し込むようになった。1イニングまるまる放棄して外周で交渉したこともある。

結局こちらの要望を投げて、あとはお任せする形で規制が明示された。この辺は一番大人の64に任せた。どうせこちらの要望を縮めて回答するだろうからと、普通じゃ到底採用されないサイズで投げてみたらしい。そうしたらそのまま採用された。当時の規制が規制にしてはかなり大きかったのは、そんな裏話があった。


観客数が少ない芝生席での高い出現率と奇怪にみえる動き、好きな選手の背番号をネームをつけたユニホームという当時ではまだまだ少ないその姿から、とある大手掲示板で話題にでるようにもなった。

こういうところで応援論を交わしたりするのも一興、もしかしたら同志が見つかるきっかけになるかもということで、実際にやり取りに参加することもあった。以前から存在が話題にあがってた自分と64が参加した。先に他称されていた9ユニ、64ユニという名称を、便宜上自称でも使うようになったのはこの頃だったと思う。


順調に楽しんでいた日々にも、この頃からちょっとずつズレが生じてきた。

根底に、チームの不調があった。無縁だったはずのBクラスに沈んだ。球団の不祥事もあった。以前から根強かった身売りの噂も多くなった。

そんな状況で、今まで以上に応援に傾倒したいと望み始めた。

そうなると、現況に不満を感じ始めた。その頃には集団といって差し支えない世帯になっていたが、その分応援への姿勢に内部でも差が顕著になってきていた。一方で、別の場所で応援する自分に近い熱量の知人もできた。


別の場所で、同じ熱量の人達と応援したい。


放っておけば維持できる集まりを崩す行為だった。単純にいえばただの我儘。我儘で多くの人を巻き込むという迷惑行為。それをわかった上で動いた。最低な奴である。

意を決して二人に伝えた。そう書くと聞こえはいいが、薄々同じ思いを抱いていることには気付いていた。最終戦の後だったろうか。64と一緒に、お世話になった方々の前で、一方的に意思を告げた。


その後、二人や他の面々と、別の場所でスタートした。応援したいといって動いた手前、適当なことはできない。そう思っていた気もする。応援団の方と話をさせていただいたり、応援に関して思いつくことをいろいろやった。その行為に大した影響があったとは思えないが。


2008年、ようやく最高の結果を見た。自己満足と自身のテンションも相まって、この年が応援に関しては一番のピークだったと思う。正直やり切った感じがあった。引き続き応援はしているが、この年から少しずつ、なだらかに熱量は落ち着いてきたと思う。


この後も多くの人と出会った。一方で疎遠になる人もいた。住まいが変わったり、職場での立場が変わったり、家庭を持ったり。そんな中でも、なぜかこの三人はなんだかんだで縁が切れていない。

自分にこどもができてから、二人とは一緒に観戦していない。自分が二人のいる場所に行かなくなった。応援についてあれこれ思うことが減ったのが理由のひとつ。あとはこどもが幼いうちに「こどもと応援する」というのを経験しておきたかったのがひとつ。あとはいろいろ。


そんなわけで、随分と久しぶりに三人で観た。

所用で少し遅れて行ったら、芝生席に入ってすぐ昔の光景があって、ちょっと笑ってしまった。


ああ、昔の平日ってこんなんだったよな。

当時持ってきていたグッズを持ち寄ったり、ここまで書いたような昔話をしたり、最近のチーム状況について語ったり。うまい言葉が見つからないけど、とにかく、楽しかった。


試合後、えるわいの奥様が来た。別の場所で観ていたらしい。気を使わせてしまったことに恐縮。

「この三人は、何年の付き合いなんだっけ。」

「20年だね」

旦那の返答に、思わず苦笑していた。自分も苦笑。流石に長い。ちょっと気持ち悪い。

記念に、と奥様が写真を撮ってくれた。







すっごい遠目で見ると、あんまり変わっていない気もする。成長してないから、でしょうか。


応援不毛の時代を過ごした間柄。その分いろいろできたことはあって、ゆえに濃い時間を過ごしたと思います。今の時代では過ごせない時間だったのかな。昔懐かしむ年寄りほど進化に邪魔な存在は無いですが。


数日後、最終戦のライトは家族で訪れました。

一旦離席して、戻るときにふと見下ろしたライトスタンド。




最後に見るライト芝生席の光景。


あのときファミレスで浮かべていた想像図に、似ている気がした。


レフトから見た、ライト芝生席最後の日。





最後に、西武ドームの芝生席で出会った全ての方に、心からの感謝と、数えきれないほどの謝罪を。

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